成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(中編)
暗闇の朝、頼りは車のラジオだけだった
本記事は「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(前編)」の続きです。前編からお読みいただくと、当時の状況をより立体的に追っていただけます。停電で家中が真っ暗な中、テレビはつかず、情報源は車のラジオのみ。繰り返される同じ内容の放送からでも、建物の倒壊や高速道路の崩落など、想像を超える被害が起きていることだけははっきりと伝わってきました。今思えば、被害状況は主にヘリコプターからの目視でしか把握できず、情報が限定的だったのだと分かります。
築60年の我が家へ駆けつけた親戚たちと、安堵と拍子抜け
地震発生からおよそ2時間後、親戚の叔父たちがそれぞれの家から駆けつけてくれました。築60年の古い家だったため、全壊を前提に「子どもだけでも助けよう」と急いで来てくれたのです。ところが私たちが「おっちゃん、どうしたん?」と声をかけるほど落ち着いていて、家に近づくほどに被害がほとんどないことが分かり、「安心したけど、ちょっと拍子抜けした」と笑っていたのを覚えています。
15人の共同生活—食料を持ち寄り、曾祖母も一緒に
その後は父方・母方の区別なく、被害が比較的少なかった我が家に親戚が集まりました。曾祖母を含め、子ども3人を入れて総勢15人ほどでの共同生活が始まります。幸い、それぞれの家から食料を持ち寄ることができ、季節が冬だったこともあり、しばらくのあいだ食材には困りませんでした。
公衆電話の長蛇の列と安否確認—避難先が決まるまでの3日間
当時は携帯電話がまだ普及しておらず、近所の公衆電話には長蛇の列。順番が回ってくるまで2時間待つことも珍しくありませんでした。親戚や知人の安否確認を続ける中で、3日後には遠い親戚の家に避難することが決まりました。
船と車での移動—大阪の和歌山寄りの親戚宅へ
避難先は大阪の和歌山寄りにある親戚の家で、被害はほとんどなかった地域です。親戚の知り合いに漁師の方がいて、ジャーナリストを神戸の隣の明石あたりまで船で送る予定があるとのこと。その帰り便に私たちも乗せてもらい、避難させてもらえることになりました。築60年の家に子ども3人と曾祖母がいたことを考えると、本当に有難いご縁でした。避難先での移動に車が必要なため、父親と叔父数名は車で向かうことに。高速道路が使えず道路も混雑していたため、本来なら3~4時間の道のりが約8時間かかって、ようやく合流できました。
テレビで知る惨状—友人を思いながら目を離せなかった
避難先で初めてテレビの映像を通して、神戸の状況を目の当たりにしました。ラジオで聞くのと、映像で見るのとでは受ける衝撃がまったく違います。想像以上の被害に言葉を失い、「まだ友達はこの状況の中にいるんだ」という辛い思いを抱えながらも、テレビから目が離せなかった記憶があります。
まとめ
- 停電で情報が遮断され、車のラジオだけが頼りだった
- 親戚が駆けつけ、築60年の家で15人の共同生活に
- 公衆電話での安否確認を経て、3日後に避難先が決定
- 船と車を使い分けて移動し、ようやく安全な場所へ
- テレビで初めて惨状を直視し、友人を思い続けた
本稿「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(中編)」では、停電下での情報収集、親戚との協力、避難までの流れをまとめました。体験を語り継ぐことが、防災への意識を高める一助になれば幸いです。
その後の被災地の様子や、避難先での日々については「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(後編)」で綴ります。続きが気になる方は、「投稿を編集 “成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(後編)” ‹ ぱぐMAG — WordPress」もあわせてご覧ください。