後編のはじめに――中編からの続きとして

これは「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(中編)」の続きです。避難生活の実感や学校での出来事、そして31年を経て感じる「語り継ぐ」ことの大切さを、私の体験談として記します。

大阪での避難生活――同年代の姉弟と過ごした1か月

震災直後、私たちは大阪の親戚宅に約1か月間、身を寄せました。そこには同じ年頃の姉弟がおり、よく一緒に遊んだことを覚えています。身近な親戚に女の子が少なかった私にとっては、まるで妹ができたようでうれしかったものです。

その間も学校に通わせてもらい、制服は借用品で対応しました。学校で必要となる費用は被災者への配慮があり、周囲の支えに助けられた日々でした。

神戸に戻ってからの暮らし――親戚宅での避難と自衛隊のお風呂

やがて神戸に戻り、別の親戚宅で避難生活を続けました。家のお風呂が使えなかったため、自衛隊の派遣する入浴バスを利用。男女が日ごとに入れ替わるため、入浴は2日に1回のペースでした。

夕方になると学校でお弁当の支給があり、食事はそのお弁当に頼ることが多かったです。親戚の家で食べた日もあったはずですが、記憶に強く残っているのは学校で配られた冷めたお弁当を、友達と近くの公園で食べた情景。非日常の体験だったからこそ、細部まで思い出せるのだと思います。

お風呂と食事、日常が少しずつ戻るまで

自衛隊のお風呂は、清潔で温かく、心身がほぐれる時間でした。お弁当の支給は夕方が多く、空が暮れていく中で友達と向かい合いながら食べたあの時間は、今でも鮮やかです。神戸での避難もおよそ1か月続き、春休みの頃に自宅へ戻りました。

プレハブ教室での学び――冷房完備と忘れられない言葉

通っていた学校は、教室に避難者が多く残っていたため、新学年はプレハブ教室で授業を受けました。昔は学校にクーラーがないのが普通でしたが、プレハブには冷房が完備されており、暑さの中でも比較的快適に過ごせたのは幸運だったと今では感じます。

学年集会で先生から「おそらく君たちがこの地震を覚えている最後の年代になる。だから、語り継いでほしい」と伝えられた言葉は、今も鮮明です。あの一言が、私の中で「阪神淡路大震災を語る理由」になりました。

引っ越しと人間関係の変化――震災がもたらした転機

翌年6月、私は現在の実家へ引っ越し、転校しました。もし阪神淡路大震災がなければ、おそらく引っ越しも転校もしなかったはずです。友人の多くも転校していき、友人関係や人間関係の変化は、子ども心にも大きな出来事でした。

31年を経て思うこと――「1.17のつどい」に通い、風化と向き合う

あれから31年。先生の言葉の影響もあるのか、私は今も「地震を語ることの大切さ」を年々強く実感しています。できる限り、震災の日には「1.17のつどい」に足を運ぶようにしています。時間が経てば記憶は薄れるもの。それでも、少しでも風化させないために、私はこれからも語り継いでいきたいと思います。

まとめ――阪神淡路大震災を語り継ぐためにできること

避難生活、学校、引っ越し――私の人生に刻まれた阪神淡路大震災の記憶は、支えてくれた人々への感謝と、次世代へ手渡す使命感へと変わりました。記憶をつなぐ方法は、特別なことばかりではありません。今日からできる小さな実践を、続けていきたいものです。

  • 毎年1月17日に「1.17のつどい」などの追悼・防災イベントに参加する
  • 家族や友人と体験を言葉にして共有し、防災について話し合う
  • 非常用持ち出し袋や備蓄を見直し、具体的な行動に落とし込む
  • 体験談を記録(文章・音声・写真)に残し、次世代へ渡す

語ることは、備えることにつながります。これからも阪神淡路大震災の教訓を忘れず、日常の中でできる一歩を積み重ねていきましょう。