成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(前編)
成人の日が近づくたびに蘇る神戸・長田の記憶
神戸市長田区で育ちました。お正月が過ぎ、成人の日のニュースが流れる頃になると、毎年のように阪神淡路大震災の記憶が鮮明に蘇ります。報道が増えることに加え、あの日が近づくことも大きく影響しているのだと思います。
1995年1月17日 午前5時46分、長田区で迎えた朝
阪神淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分に発生しました。当時、私は小学校3年生。弟は小学校1年生と年長で、家族で築約60年の2階建てアパートに暮らしていました。
2階はふすまを外してほぼ一室になっており、8畳ほどの空間にベッドが3台。たまたまその夜は、上の弟が熱を出していて、母の隣で下の弟と一緒に布団で寝ていました。父は私の隣、弟のベッドで寝ていました。
あまりにも大きな揺れ、父の「地震や!」
まだ誰も起きていない時間。地震を経験したことのなかった私は、ありえないほどの大きな揺れに飛び起きたものの、何が起きているのか理解できませんでした。その中で、父が「地震や!」と叫んだ声だけははっきり覚えています。
揺れがいくらか収まると、父が1階の様子を確認しに降りました。私と母、弟たちは少し離れていましたが、母に呼ばれて私はシステムベッドから降り、母の元へ向かいました。階段を降りるとき、そして歩く途中に感じた余震の感覚は、今でも鮮明です。
一階の安全を確認し、家族で移動
父の確認で1階の方が安全だと判断し、家族全員で1階へ。電気は止まっていました。冷蔵庫の氷が溶ける前にと、母は近所へ氷をもらいに行き、熱のある弟はこたつの中で氷で頭を冷やしながら休みました。
室内の被害とライフラインの停止
室内では皿が数枚割れ、飼っていた金魚が水槽から飛び出していた程度の被害でした。ガスはプロパンだったため最初は使えましたが、のちにガス会社から「危険なので停止する」と連絡があり、使用できなくなりました。
周辺の被害と地形の影響
当時住んでいた場所は山の麓の高台寄りで、地盤が比較的しっかりしていたのだと思います。周囲のアパートでは壁紙が一部はがれていたり、地面に小さな亀裂が入っている程度の被害が中心でした。しかし、少し下の方を見下ろすと、あちこちから煙が上がり、火災が発生しているのがはっきりと見えました。
なぜ今、阪神淡路大震災の体験談を書くのか
この阪神淡路大震災の体験談は、当時小3だった私の目に映ったもの、家族の行動、胸に刻まれた感覚をそのまま残す記録です。記憶を言葉にすることは、過去を忘れないためであり、同時に、次に備える小さなヒントにもなると信じています。
体験談から得た小さな学び
- 揺れが収まっても余震に注意し、家族で合流を最優先にする
- 室内の安全を確認してから、より安全な階や場所へ移動する
- 電気・ガスなどライフラインの状況を早めに把握する
- 近所との助け合い(氷の融通など)が心強い支えになる
- 平時から寝床の配置や避難経路を家族で共有しておく
まとめ
長田区で迎えた1995年の早朝、家族で確かめ合った不安と安心の入り混じった時間は、今も忘れられません。体験を語り継ぐことが、誰かの備えにつながることを願っています。その後に見た被災地の光景や、避難先での暮らしについては「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(中編)」で綴ります。続きが気になる方は、「成人の日に蘇る阪神淡路大震災の記憶|神戸・長田区で小3だった私が見た1995年1月17日の朝(中編)」もあわせてご覧ください。